Enabling SREの意義をファイナンスの観点で考えてみる

目次

この記事は何?

本記事では、Enabling SREの意義を定量的に示すことで、この領域への投資判断を組織全体に説得力を持って伝えられるのではないか、という素朴な疑問をファイナンスの観点から考察します。 Enabling SREの文化を取り入れたいものの、その効果や意義をチーム外に説得力を持って伝える方法に悩んでいる方の参考になれば幸いです。

あなたは誰?

株式会社グロービスのデジタルプラットフォーム部門(以下、GDP)でSite Reliability Engineerをしており、プロダクト横断的に信頼性向上に従事しています。AWS、Kubernetes環境でTerraform、Kustomizeを活用したIaC運用を推進しつつ、AIツールを活用したチーム支援・Enabling活動の実践者として活動しています。

前提

本記事におけるEnabling SREは、グロービスSREが考える方向性をベースにしています。 グロービスでは、複数のプロダクトチームに対して横断的なSREチームが1つあります。SRE Visionは「プロダクトチームが自らDevOps的な開発生産性向上と信頼性の維持を行える状態を目指す」ことです。

Enabling SREは、SRE Visionを元に、プロダクトチームが自分たちのプロダクトの状況にマッチしたSREの文化やプラクティスを取り込めるようにサポートすることをミッションにしています。

Enabling SREの価値を定量的に説明することの難しさ

SREはプロダクトの信頼性に着目した仕事です。直接的な利益を生まないうえ、成果を説明することが難しい特徴があります。マイナスをゼロにする取り組みや、数カ月から数年単位でようやく成果が出る取り組みも少なくありません。

特にEnabling SREは、プロダクトチームのケーパビリティを向上させることで、組織全体の開発生産性とプロダクトの信頼性向上を目指しています。定性的には「SREが全部やろうとするとボトルネックになるから必要だよね」と理解されます。しかし、「どれくらいの効果が見込めるのか?投資対効果はどうなのか?」を説明するのは容易ではありません。

さらに、この種の仕事は障害などのマイナス事象が発生したときに注目されがちですが、平時にその価値を証明することは困難です。目指すべき世界観について「それは確かに必要だね!」という共感は得られても、「障害はほとんど起こってないし、機能リリースも予定通り進んでいるから、優先度は低いのでは…?」という反応を受けることもあるでしょう。

ここで一歩踏み込み、「これによって誰がどれだけ嬉しいのか?どれくらいの価値があるのか?」をより具体的・定量的に示すことで、Enabling SREへの投資意義を説得力を持って説明してみたいと思います。

ファイナンスという考え方

1on1でこの課題を相談した際、「ファイナンスの考え方を取り入れれば、より定量的に必要性を説明でき、どこまで投資すべきかの判断材料になる」とアドバイスをいただきました。

特にチーム外への説明では、「個人的にこの投資が必要だと感じるのでやりたいです」よりも「数値としてこれだけの効果が期待でき、N ヶ月で投資回収できるのでやる意義があります」と伝えた方が、はるかに説得力があります。

MBA で学ぶファイナンス(財務)は、端的に言えば 「企業価値の最大化を目的として、企業のお金に関する『未来の意思決定』をするための考え方」であり、「限られたリソース(お金や時間)をどこに使えば、未来の価値が最大になるか」 を意思決定するために用います。

この視点をEnabling SREに応用してみましょう。

ファイナンスの観点でEnabling SREを考える

例に出している各種数値(例:人件費、時間、売上)はあくまでもイメージを掴むための例です 🙏

1. クラウドコストから見えてくるユニットエコノミクス

SREはスケーリング最適化やFinOpsも担当します。売上が伸びてもサーバー代が同じ比率で増えていては、利益率は改善しません。SREがインフラ効率を高めることで、「売上が増えてもコストが増えにくい体質(限界利益率の高い体質)」を作ることができます。 これはまさにファイナンスにおけるPL(損益計算書)上のCOGS(売上原価)を直接削減する取り組みです。

さらに、「ユニットエコノミクス(1単位あたりの経済性)」の視点を持てば、SREは経営のパートナーになれます。

  • 1リクエストあたりコスト = インフラ変動費 ÷ リクエスト数
  • 1ユーザーあたりコスト = 月間インフラ変動費 ÷ MAU

これらを可視化し、アーキテクチャの改善によって「ユーザーが増えれば増えるほど、利益が良くなる構造」を作れたらどうでしょうか?特にインフラコストはプロダクトの仕様や性質に依存する部分が多く、ドメイン知識を熟知したプロダクトチームがケーパビリティを持つことで、より効率的にテコ入れができる可能性があります。それは単なる節約ではなく、企業の利益体質そのものを改善する活動になります。

「このアーキテクチャ変更により、ユーザーあたりの原価が2円下がります。100万ユーザーなら月200万円の利益増になります」といった具合に具体的な数値を示すことで、説明に説得力を持たせることができます。

2. 組織へのレバレッジ投資

グロービスでは複数のプロダクトチームが存在する一方で、SREチームはプロダクト横断で1チームのみです。このため、SREがすべての信頼性向上を担うことは現実的ではありません。そこで、プロダクトチーム自身が信頼性向上のためのケーパビリティを身につけることを重視しています。

「事業が拡大しても、管理コストが比例して増えない仕組みを作る」——この考え方は、ファイナンスの視点で見ると 「レバレッジ(てこ)効果」 そのものです。

Enabling SREを通じてプロダクトチームが自走できるようになれば、プロダクトの数や規模が増えてもSRE人員を比例して増やす必要がなくなります。つまり、線形増加を回避できるのです。 これは『エンジニアリング組織の限界費用(Marginal Cost)』を下げるための施策と言えるでしょう。この投資により、今後プロダクト数やプロダクトチーム数がN倍になってもSRE人員を同じくN倍にする必要がなくなり、利益率の高い筋肉質な組織構造を実現できます。

グロービスSREチームではモブプログラミングなどを通して、プロダクトチームへのケーパビリティ向上に取り組み、組織全体のレバレッジを効かせようとしています。

3. Time to Market(収益化までの時間)の短縮

開発チームがインフラ関連の開発や改善を行う際、SREチームへの作業依頼(リソースの追加や設定変更など)が必要になると「待ち時間」が発生します。ファイナンスの考え方では、出荷待ちの製品(リリース待ちのコード)は「在庫」であり、キャッシュフローを悪化させる要因です。

SREへの依頼待ち時間をなくせば、機能開発から収益化までのリードタイムを短縮できます。これは「開発プロセスの在庫回転率」を高め、より早くキャッシュを生み出す(NPV(正味現在価値)を高める)プロセス改善です。

例えば、インフラ領域の作業をセルフサービス化し、プロダクトチームがそのナレッジを身につけることで、以下のような改善が見込めます。

Before

  • プロダクトチームが新機能でRDSのパラメータ変更が必要
    • SREへチケット起票 → 待ち時間3日 → レビュー1日 → リリース
    • 合計5日の待ち時間

After

  • Terraformのセルフサービス化により、プロダクトチームが自らPR作成
    • 自動テスト → 翌日リリース
    • 待ち時間1日に短縮(4日分の機会損失を回避)

効果

  • 年間20件の依頼があれば、80日分のリードタイムを短縮
  • 開発者の人件費を1日あたり10万円とすると、800万円相当の時間を創出

特にグロービスのように、複数のプロダクトチームに対して横断SREチームという体制では、タイミングによって大きな待ち時間が発生します。複数プロダクトチームからの依頼とSREチーム内のタスクが重なるためです。また、プロダクトチームの待ち時間が発生しない場合でも、SREチームが本来やるべき作業を進められない状況につながります。

Enabling SREを通じて、これらのサイクルをどれだけ短縮できるかを定量的に示すことで、説得力を持たせることができるのではないでしょうか。

ありそうな懸念点

「そうはいっても、こうした観点での評価は難しいのでは?」という意見もあるかもしれません。そこで、よくある懸念点にいくつか回答してみます。

障害は少ないから投資不要では?

これは「火事になったことないから、火災保険は不要では?」と同じ構造です。ファイナンスでは、これを テールリスク(低頻度・高損失リスク) という概念で扱います。

データベースの障害対策を例に考えてみましょう。 あるECサイトで、過去3年間データベース障害は0件でした。「じゃあバックアップや冗長化への投資は不要?」と考えるかもしれません。 しかし、もし大規模な障害が発生したら、以下のような損失を被る可能性があります。

  • データ消失で全顧客情報が失われる
  • サービス停止期間:3日間
  • 直接の売上損失:3,000万円(日商1,000万円 × 3日)
  • 顧客の信頼喪失による長期的な損失:推定5,000万円
  • 合計:8,000万円の損失

大規模障害の発生確率が年0.5%(200年に1回)としても、期待損失は以下のようになります。

  • 年間の期待損失:40万円相当 (8,000万円 × 0.5% = 40万円)

一方で対策コストは以下のような試算ができます。

  • 冗長化構成への移行:初期150万円
  • 年間運用コスト:60万円

これに対して、「障害ゼロなのに年60万円もかける意味あるの?」と見えます。しかし、これは「年40万円の保険料で、8,000万円の損失リスクをカバーする」投資です。

保険の世界では、期待損失だけでなく 最大損失額(Maximum Loss) も重視されます。8,000万円の損失は、中小企業なら倒産リスクにもなり得る金額です。年60万円で「会社を潰しかねないリスク」を回避できるなら、これは合理的な投資判断です。

プロダクトチームがデータベース運用の信頼性を向上するためのスキルを持って実施したり、インシデント対応のケーパビリティを持っていれば、以下のように捉えることができます。Enabling SREへの投資で、組織全体のテールリスクを大幅に下げられます。

  • 復旧時間:3日 → 4時間に短縮
  • 損失:8,000万円 → 400万円に低減(95%削減)
  • 期待損失:40万円/年 → 2万円/年に改善

SREが中央集権的に対応したほうが速いのでは?

個々の対応だけ見れば、SREが対応する方が速いです。確かに目先どうしても急いで対応しなければならないケースについては「できる人がやったほうがよい」となりますが、それを永遠に続けていては、組織の拡大とともにSREがボトルネックになります。

より本質的な話としては短期の局所最適 vs 中長期のレバレッジの天秤を考えると良いと思います。

例えば以下のような前提状況だったとして、

  • SREの対応時間:1件30分 × 年間100件 = 50時間
  • プロダクトチームの待ち時間:平均2日 × 100件 = 200営業日

これにEnablingで初期投資20時間かけてプロダクトチームが自律的に対応可能な状況になったとすると、以下のように大きな効果を発揮します。

  • SREは30時間削減(相談対応のみになる)できる
  • プロダクトチームは200日分の待ち時間削減
  • 翌年以降、この効果が継続

※実際にはプロダクトチームへの教育コストの過小評価や、その後の継続的なサポートコストを加味する必要があります。

まとめ

Enabling SREの取り組みをファイナンスの観点で整理すると、以下の価値が見えてきます。

  1. レバレッジ効果: 初期投資でN倍のリターン
  2. リスク管理: テールリスクの期待損失を定量化
  3. 利益構造改善: ユニットエコノミクスの最適化

重要なのは、これらを 組織の状況に合わせて試算し、継続的に測定することで す。本記事で示した考え方を、ぜひ自組織に当てはめて検討してみてください。

グロービスSREチームは現在、積極的に採用を拡大しています。SREの文化や取り組みについてもっと詳しく知りたいとお考えの方は、ぜひご連絡ください!